コラム

今日で11年。3・11を振り返る。

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私は3・11を記事にすることは今まであまりしませんでした。
なんていうか、こう、数稼ぎだと思われたくないじゃないですか??
全く記事にしていないわけではないですが、3月11日に喜び勇んで「3・11ですよ!!ほら!」みたいなことはあまりしたくなかったんですよね。

じゃぁなぜ今日は更新したのか??
ネットやメディアが大分3・11を扱わなくなったからですね。
いまさら東日本大震災をみんな喜びいさんで書かなくなったということは「儲けが少ない」とか「風化してきた」とも取れます。
※もちろん今新型コロナウィルスやロシアのウクライナ侵攻による世界情勢の不安の方が優先という面もあるでしょうが。

このままだとゆっくり東日本大震災が風化していくだろうな。
と思い今日はこの話題を取り扱っていきたいと思い今回の記事を書きました。
とはいえ物凄いしっかり書いているというわけではなくあくまであの時当時の状況を振り返るみたいな記事ですのでご了承ください。

2011年3月11日当日

当時は会社所属のミュージシャンとアルバイトの2足のわらじ。
午前中から私は仕事で動いていました。

実は3月に福島でライブイベントをする予定だったのですがバンドメンバーの諸々で中止に。
それによって調整等をするために会社で午前中は会議でした。
朝からなかなかメンタルを削られつつも、昼は渋谷にて知り合いと昼食。

その後13時ごろより11日夜に提出用の書類や楽曲データの打ち合わせを渋谷東急ハンズ前の喫茶ルノワールで行いました。
最終確認やすり合わせなどを進めていき、14時過ぎに解散。
夕方からは飲食店のアルバイトなので電車で横浜に向かいました。
※当時の私は横浜の飲食店でアルバイトをしていました

東急東横線横浜行きに乗車中、中目黒を過ぎた程度のはずです。
14時46分頃。中目黒~祐天寺間は陸橋の上を走っていたので前触れも無く緊急停止。
特にアナウンスも無く「キキキィィィィ―――…」という変な止まり方をしたのを覚えています。

陸橋の上で停車するのはかなり珍しく、ボーッと窓の外を眺めているとあれ??なんか揺れている??
まず目についたのは「電線が揺れている」ことに気が付きました。
ん??地震か??と思った瞬間に物凄い轟音と共に電車が揺れ始めました。

陸橋の上だということもあり、横揺れが凄く、ミキミキミキミキ!!という音が本当に凄かったです。
窓の外の電柱が横揺れをしており、しばらくして揺れが収まりましたが車内はパニック状態。
携帯電話は繋がりづらく、メールの新着問い合わせもできない状態でした。

電車内のアナウンスも「地震が観測されたため安全のために確認中です」と電車の中で閉じ込められた状態になりました。
明らかな大地震。長らく東京住みの私でさえ経験したことないレベルの地震。
しかし窓から見える街並みに大きな変化はなく、震度6程度だとしても富士山噴火では無いのか…。と安どしたのを覚えています。

地震から10~15分程度たったぐらいでしょうか??やっと携帯が繋がるようになり、ニュースを見ると「東北沖で大地震」という情報が出ていました。
このレベルでしか情報が無い状態で続報も無く、電車の中に缶詰状態がスタート。
のんびり携帯を見るしかなく、ゆっくりとではありますが地震についての続報などがニュース記事にあがっていますが、今ほどしっかりとした情報は全然得られませんでした。
当時は「LINE」も無く、スマートフォンを使用している人は多くない時代です。そもそもiPhoneがSoftbankの専売時代

なんだかんだと夕方近くまで電車に閉じ込められた状態。
やっとこさ17時近くに最寄りの中目黒駅にて降車し、不安な人は近隣の公園で待機できますと言われましたが私は拒否。
さて、このままだと夕方のアルバイトに行けません。電話はかけても繋がらない状態。

とりあえず中目黒に待機しているわけにもいかず、歩いて渋谷方面に歩いていきました。
この時点では道は混んでおらず、スムーズに行けたのを覚えています。

テレビに映る衝撃の映像

渋谷方面に道玄坂から入ったのですが、携帯電話の接続が不安定でどうしようもなく、情報収集ができない状態。
現時点で持っている情報は「東北で地震があった」「東京が大きく揺れる程度」
家電量販店に向かえば展示してあるテレビなどで何か見れるかもしれないと思い、とりあえず向かうことに。

道玄坂裏の「YAMADA電機LABI渋谷店」の1階には当時テレビがいっぱいあったのでそこに向かうと物凄い人込み。
なんとか見えたテレビに映し出されていたモノは、大きな津波が福島を襲う映像でした。
あの時の衝撃は忘れられません。まだ規制などせず、空中映像でしたがひたすら街を飲み込む映像でした。

これは流石に大変だ。としか思えず、状況が上手く呑み込めませんでした。
テレビには「鉄道は全線見合わせ」を始めとする混乱した状況などを放映しており、もうこれはどうしようか。というのしか思い浮かびませんでした。
アルバイト先に連絡をあきらめずかけ続けているとやっとここで連絡が付きます。

「お店、お休みだから大丈夫!」と「明日以降の営業は追って連絡する」とアルバイト先の心配はとりあえず無くなりました。
この夕方ごろに携帯電話が順次復旧し始めたのか、家族とも連絡が取れるようになりました。
実家は問題なく、全員無事。今日のアルバイトが無くなったのは良いのですが、夜中に吉祥寺方面でスタジオに入らなくてはいけませんでした。

こちらは連絡が取れず、どうする事も出来ない為、吉祥寺に向かいたかったのですが、電車の復旧がいつになるかわかりません。
渋谷~吉祥寺間は頑張れば歩いていけない距離では無いですが、機材を持った上で向かうのは正直無理。
父親からバイクを借りるために一度実家に歩いて帰ろうと決めました。

11日はとにかく大変な1日だった。

渋谷から実家までは歩けば1時間程度の場所にあります。
1時間程度歩けばつくだろう!と思っていたのですが、ここが甘かった。
この時点での時間は18時すぎごろだったと思うのですが、帰宅難民によって道が物凄い混み方をしていたのです。

後にも先にも遊園地や販売列のように道があそこまで混んでいる状態は見たことがありません。
人混みが凄いのでゆっくりしか進めず、実家に到着したのは21時過ぎごろ。
実家の家族は元気そうで安心しましたが、父親の部屋は物が多く、地震でモノが崩れ部屋にずっと閉じ込められた状態だったそうです。

さっきやっと部屋から出てきた父に珍しく本気の「バイクを貸してください」というお願いをすると緊急時の為快く貸してくれました。
軽く実家でご飯を食べ、バイクに搭乗。途中バンドメンバーを拾い吉祥寺へ…。
道路は少し混んではいましたが、車道はそこまで大変ではなかったです。

歩道にはやはり物凄い人数の帰宅難民者がいましたが。

吉祥寺についてスタジオに入ると本来来るべき人たちが全くいません。
当然ですね。会社経由で連絡を入れていき、最終的にはその日は無しに。
メンバーを家にまで送り、バイクで実家に帰宅。

この時点で大体朝の4時ごろでしたでしょうか??
とにかく疲れた。とりあえず眠ろう。それしか考えず就寝。

変わっていく生活。非日常な状況。

少し遅く起きてニュースをつけると、1日経ったためか津波の映像を始めとする大混乱な状況でした。
とにかく現実感がない。YouTubeなどにも動画が上がっており、まとめブログや2ちゃんねる等でも現地の凄惨な状況がアップロードされていました。

11日の夜には入荷されてない所がチラホラでしたかが、12日の時点で完全に食料の入荷がされなくなった場所もあり、近所のコンビニなんかではガラガラの棚。
スーパーにいっても食料品が手に入りづらいなんて事が数日続きましたね。

東日本大震災後、ここからはよく色々なサイトに書かれている通りです。

CMは差し替えられ、原発のメルトダウン、計画停電などなど。
CMは「AC」の「ぽぽぽーん」がエンドレスで流れるようになり、どの番組・どの時間帯でもあのCM。
原発問題は12日以降にゆっくりと報道されるようになり、最初は「メルトダウンを起こしていない」という報道だったはずです。

福島第一原発の稼働停止により、東京周辺の電力問題がひっ迫。
それによって「計画停電」と呼ばれる「地域・時間帯を決めて停電させる」等という計画も実行されました。
この計画停電は東京23区などの「主要地域は除外」し他の地域はしっかりと順番に停電していたのでかなり緊急事態な事がわかると思います。

私の実家は23区内だったので計画停電は未実施。
当時のアルバイト先は「横浜」だったのですが、最初の段階では計画停電の予定地域に入っており、店舗を開けるか否かがギリギリまでわからない状態でした。
結局アルバイト先は計画停電から外れ、無事営業はできた物の、来客は全く来ずあまり開店しておく意味はなかった状況でしたね。

隣の区はしっかりと計画停電に組み込まれ高い所から眺めるとその地域が真っ黒になっていたのは本当に衝撃でしたね。
綺麗に一区画真っ黒。大規模停電状態は完全な非日常だったと思います。

それから

今回はこれ以上細かく書きませんが、東日本大震災から約1年経たない程度の頃に福島県までイベントの為に行きました。
被害の少ない地域は特に問題ないように見えましたが、やはり被害が大きい地域は時が止まったように。
埋まっている神社、いるべきではない所を歩いている牛。がれきの山。独特のにおい。

福島で被災したため東京に移ってきたという方と仕事する機会も何度かあり、色々な話を聞かせて頂いたこともありましたね。
これで何か啓蒙活動をするということ気はは無いですが、それ以降の「天災」への考え方が大きく変わった経験でしたね。

もうあれから11年で、結局私みたいな東京人って津波の脅威を外からしか見れていないんですよね。
だからこそもう「過去」の話として語れるわけで。未だに被災して、未だに苦しみが続いている人がいると思います。
東京人の私として、こうした記事を書くことにより少しでも風化させず、被災した方々のお力に少しでもなれれば幸いです。

最後に。
今回の記事中に「大変な一日だった」と表記しましたが、あくまでも当時の感情を正直に述べるための表記です。
11日当日、雪が降りしきる中で避難所にも行けず、三日間物資が届かない方たちに比にならないものだと認識しています。
東日本大震災にて被災され、命を落とされた方のご冥福をお祈り申し上げます。

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