閲覧注意は人によっては嫌な記憶を呼び起こすのではないかと思いつけさせていただきました。
今回は記憶と言っても当時の事を思い出す雑記です。
通称3.11から早丸6年が経ちました。
NHKなんかは特集をずっとやっています。
阪神淡路大震災は1995年。私は小学生でした。
朝からずっとニュースはマグニチュード7.3を連呼し、学校の朝礼で凄く説明されてもピンときませんでした。
高速道路が倒れていたり、火事の映像が流されていたのを覚えています。
それに対して東日本大震災は自分の中でも最近の出来事です。
もうあれから6年たつんですね。
当時の私は飲食店でアルバイトをしていて、横浜に勤務していました。
少し早めに出勤しようと東急東横線に乗っていた時に地震を体験しました。
中目黒駅の近くの陸橋で物凄いブレーキをかけて緊急停止し「え?こんな所で人身事故!?」と思ったことを覚えています。
アナウンスも特に流れず、いきなり物凄い揺れ。電車内はそこまで不安になる事はなかったのですが、車窓から見える電柱や電線が大きく揺れていることでただ事じゃないと感じました。
そのまま電車の中に閉じ込められ、いきなりの大地震でパニックになっていた女性も車内に居ました。
携帯は繋がりにくくなり、情報がほとんど手に入らない状態になりました。
バイト先に電話がやっとつながったと思ったら誰も出ず。
電車内に2時間近く閉じ込められた後にやっと降りれても「公園に避難していただくかもしれません」と駅員さんも大慌て。まぁ無視してとにかく降車駅から出てしまいましたが・・・
中目黒で降りたので、さすがに繋がるだろうとバイト先に電話すると「今日はお休みで大丈夫!」と言われとりあえず渋谷に歩いて行こうと思い徒歩で移動。
渋谷のYAMADA電機で展示品のテレビに大勢の人だかりができていたので確認してみると福島・宮城沖の大津波の映像がずっと流れていました。
もう現実感が全くなかったなと。
電車は全線動いていない、タクシーも捕まらない。諦めて徒歩で帰宅することに。
大通り(国道246)は帰宅する人たちで歩道が溢れていました。見たことのない異様な光景。
やっとの事で実家に帰宅すると家の物が倒れていてぐちゃぐちゃ。
3月11日の夜中にはスタジオの予定だったので何とか行きたくても電車が一向に動く気配も無し。
父親に何とかお願いして中型バイクを借り、現地に向かいました。
もちろん誰も来れなかったので中止になったのは言うまでもありません汗
その日のスーパーにはほとんど商品が並ばず、途中でよったコンビニは食物がガラガラ。
ビジネスホテルなどは完全満杯、何もかも非現実でしたよね。
携帯が繋がるようになってからは津波のニュースや情報も受信できるようになり、そういえばまだLINEなんかも無かったような・・・。
3・11での私の記憶はこんな感じです。
3・11からは「計画停電」や「CMがACに全て切り替わる」とテレビも現実も凄い非日常感でしたよね。
津波の犠牲者・行方不明者も数が日を追うごとに増えていき、原発問題と連日報道されていました。
当時のバイトしていた飲食店も計画停電の影響で店舗を一週間休むかもしれない、開店していてもお客様がしばらく来ないと首都圏なのに大混乱でした。
東日本大震災の被災地はテレビを見る限りだと復興は進んでいますが、テレビに映らない事もかなりあると感じています。
地震から1年後ぐらいにLIVE等で福島・宮城を訪れたことがありますが、当時はまだまだいろいろな物がのこっていてものすごい衝撃を受けたのを覚えています。
阪神淡路大震災では建築法の改定やカセットボンベの規格の統一化など教訓と対策が生まれました。
(火災旋風の恐ろしさなども)
東日本大震災での教訓では「報道アナウンサーの曖昧ではない避難勧告」「津波への正しい認識」等が生まれています。
原発をのぞけば「天災」なので防ぐ事には限界がありますが、こういった災害から教訓を得て、忘れてはいけないなとも強く思います。私が小さかったころの阪神淡路のように薄れていきすぎるのはよくないな、と。
話のまとまりが無さすぎる今日の雑文ですが、忘れない為にもしっかり書きたい気持ちが先行した文なのでこのまま残します。
被災者の皆さんには「一日も早い復興」より「幸せ」になってほしいです。
まだ見つかっていない方々の発見、犠牲者の皆様方のご冥福をお祈りします。
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